雲雀が狂いかけてます。暗いです。注意!





















 夜9時。仕事を終えて、いつも通りの道を歩く。
 仕事場から歩いて30分、地下鉄を使うと5分そこそこの場所に建っているアパートメント2階。
 そこが最近自分が帰る場所になっている。
 自分の家ではない。
 同僚が住んでいる家だ。(一応まだ、同僚のはずだ)
 前にコピーしておいたキーで開錠する。
 が、これは彼が鍵をかけたわけではなく、自分が今朝出かける際にかけたためであって。
 それでなければきっと、一日中鍵は開きっぱなしだろう。
 いくら中に居るのが彼だとしても、この街でそんなことをするのは危険すぎる。
 それに今の彼では。

 き、い。と、扉を開ける。
 瞬間、微かに、しかし酷く匂ってくる、血の、匂い。
 鮮やかに、強靭に、どこか退廃的に、それでいて魅惑的に。
 昨日の血ではない。新しい。血に慣れた自分には、その判別くらいすぐつけられる。

 ああ、また・・・!

 失礼しますね、と。
 この家の中のどこに居たとしても、(どうせベッドルームに居るだろう)聞こえる声で言い、
 出来る限り気配を滲ませて。神経を刺激しない程度の音を立てながら。
 彼を探す。
 明かりは消えたまま。つけてはいけない。
 薄暗い中。しかし、もう慣れた部屋の構造だ、気にすることも無い。
 靴を脱ぐのを忘れずに、(かつての彼は、なぜだか玄関で靴を脱ぐよう強要した)
 廊下を歩いて繋がるリビングルームを確認、やはり居ない。
 そして、ベッドルームへ続く扉を開く。

 点けられていない電気。
 窓にかけられた黒いブラインドから差し込む街灯の灯り。
 黒いパイプベッド。
 かつては、真白だったはずのシーツ。
 ぽた、り。ぽたり。
 染み込む鮮血。
 足を投げ出して座りこむ、彼。
 彼の右手の先で鈍く光る、剃刀のエッジ。
 理科の実験用のそれは、通常使用されるものよりはるかに鋭い。
 すぱりと切れた手首を舐める彼。
 血に染まる唇。
 口の端から零れる、血。
 浮かんでいる、恍惚とした笑み。
 かつての彼からは想像も出来ないような。
 何かに憑かれたような、表情。
 っは、あ。
 吐き出される、彼の吐息。
 むせ返るような。
 血の香り。

 絡みつく、死臭かのような、生の気配が色濃く漂う部屋。

 いつも通りの光景。
 昔ではありえなかった光景。
 いつからか当たり前になってしまった、光景。
 彼が自分の手首を剃刀で切り裂き、流れ落ちる血を舐め啜って、いる、光景。

 僕らのボスは、彼が仕事場に来なくなって何か直感したのか。
 僕に彼の様子を見に行くように命じて。
 そしてやってきた僕が見た光景は、彼が血塗れになりながら、自分の腕に剃刀を走らせるもので。
 驚いて、あわてて彼を押さえ込もうとしたのだが、
 彼は、半狂乱に喚いて右手に持ったままの剃刀をこちらに振るってきたのだ。
 それは音も立てずに僕の腕をす、と切り裂いて、
 血がたくさん出て。
 そんなことはまあどうだってよかったのだけれど、
 あまりの彼の変わりように驚いていて、動くことが出来なくなって。
 (だって、彼はめったに大声をあげることの無い人だったのだから)
 ぼう、としている僕の腕をつかんで、彼は。
 流れ出している血を、啜りはじめた。
 「雲雀さん、どうしたんですか、雲雀さん!?」
 彼の名前を呼びかけても、無反応で、
 ただただ、僕の血を舐めているだけだった。

 それから毎日、僕は仕事場所から真っ直ぐ彼のこの家に来ている。
 「雲雀さん、」
 部屋の入り口に立ったまま、呼びかける。
 返事をすることもあれば、目を向けるだけのこともあり、
 完全に無視される事だって、あり得るのだけれど。

 「ろ、くどう」
 口を手首から離して。
 ぼう、とした目をこちらに向けて。
 声を余り出さないせいで掠れかかった声で。
 しかし、僕の名前をはっきりと呼んだ。
 今日は調子が良いのかもしれない。
 「雲雀さん、入りますよ」
 彼が微かにだがうなずいたのを見てから、部屋に入る。

 その彼は、やはりぼうっとしていて眠たそうにも見える。どこか遠いところに焦点が合わされた虚ろな瞳。口元は小さく何か呟いている。
 投げ出された彼の左腕をそっと捕って手首にタオルを当てる。
 瞬くうちにタオルは赤黒く染まっていく。
 代わりにタオルに覆われた手首から流れていた血は治まってきて。
 ぐ、と圧迫されたのに違和感を感じたのか、虚ろな彼の目が手首に向けられた。

 「足りな、い」

 何が。
 問うまでもない。
 かたかたと震え始めた彼の、右腕が、
 剃刀を握ったままの彼の右腕が、
 ひう、ん、と信じがたい速度で空を走り、左腕を拘束する僕の腕を払い除けにかかる。
 「あ、っは、足、りない、うあ、あ。っあ、あ」
 足りない。
 何が。
 血、が。
 「足りな、あ、は、っあ、うあ、足りな、いっ」
 この状態になった彼は、僕にはもう、どうすることも出来ない。
 左腕を僕から取り返して。
 剃刀を左手首に当てて。
 すぱり、すぱり、とまるで紙でも切るかのように何度も切りつけた。
 とたんにまた、溢れ出す鮮血。
 「っはあ、あ」
 掠れた声で呻きながら、それをまた、彼は啜り始める。
 彼の震えが治まって、ゆく。

 ああ。
 何が彼を壊してしまったのだろうか。
 何が、いけなかったのだろうか。
 僕には分からないし、
 きっと、彼にだって分からないのだろう。
 分かっているのは。
 結果がこうなってしまったという事だけ。

 「っあ。あ、あ」

 僕は、ただ君を見ていることしか出来ない。
 ぼくはただ、君の傍に、いるだけしか、出来な、い。
 もう、どうしたらいいかなんて、分からない。

 誰か、教えてください。
 僕はどうすればいいんでしょう。
 どうすれば、彼を救い出すことが出来るんでしょうか。
 
 ねえ、雲雀さん。